忘れられない一夜、正確には夕方くらいだったのだが、過ぎてしまえばまた日常に帰ってくる。周りを見れば本格的に受験モードだ。進路が決まっている俺は成績がこれ以上下がらないようにするためだけにきちんと学校に来る。授業を受けていても、思考が少しだけ昨日に取り残されていて、少し熱っぽいような気さえした。
玉砕したが未練はない。本命がいるというのだから、仕方ない。もともと目的ありきの出会いだし、果たされればそれで終わりの関係だった。昨日気持ちを打ち明けてから、俺はずいぶん気分がよかった。悲しい気持ちは一切なく、自分にも本当に好きになれる恋人が欲しいと、むしろ前向きな気持ちになった。同じようなことを考えている人と出会えたらの話だが。
「影山」
二限が終わった休み時間に机に突っ伏していたら、聞き馴染みのある声が降ってきた。こいつが入ってきた瞬間教室にいた女子がざわついていたので、ああ月島か、と思った。
「昼休み、ちょっと来て」
月島は表情の無い声でそう言った。昨日のことで何か勘付かれたのだろうかと動揺した。顔を上げてから、わかった、と返事をして、再び伏せた。追求されたら、どうやって答えよう。
月島に連れて行かれたのは校舎の五階、人気のない階段の踊り場。屋上は立ち入り禁止だから、ここは誰も通らない。確実に何か言いづらいことを言うのだろうと思った。部活以外でこうしてふたりで話したことは、たぶん今までに無い。
「昨日の影山、明らかに様子おかしかったけど、電車乗ってどこ行ってたの」
答えなければいけないだろうか。黙ってしまうとますます怪しまれる。少しでも濁せるならそうしたいが語彙がない。
「どこ行くのって聞こうとしたら、行っちゃったし」
「ふられに、行ってた」
「へ、影山彼女いたんだ。まあ、いるか、彼女くらい」
間違っているが、大体合っている。うまく濁せた。
「ていうかフラれたんだ。大丈夫?」
「フラれた、けど後悔してない」
「そうなんだ」
相槌を打ちながら、月島が少し近づいてきたような気がする。と思うと、右手をこちらに近づけてきた。気がついたらすぐ後ろは手すりがついた壁だった。月島は俺を追い詰めるようにしてから、髪の先を摘んでしゃりしゃりと指先で弄んでいた。一体何が起こっているのか、状況が理解できない。ここは学校だ。月島は俺の恋人ではない。友達なのかもよくわからないこいつが、俺の髪を触って遊んでいる。そのうち動きが大胆になり、後頭部を撫でて丸みを楽しんでいる。小動物にでもなった気分で、俺は小動物のように黙ってぽかんとしていた。
「ごめん、困ってるね」
「いや」
「僕、こういうことしたいって思ったの、君が初めてで」
「おう」
「どうすれば良いかわからなくて、今こうなってるんだけど」
ふと月島の顔を見ると、眼鏡の奥で泣きそうな目をしていた。月島は冷静だとよく評価されているが、感情がよく表に出る方だと俺は思う。口から出る言葉は、反対言葉のことが多い。けど今は、本当のことを言っているように思う。
月島は頬を赤く染め、俺をどうにかしたいと言っている。
「何で嫌がらないんだよ」
「知るか」
「好きでもない相手にこんなことされて気持ち悪くないの」
嫌がれば良かった。嫌がった方が自然だった。好きでもない相手とこういうことをし過ぎて忘れていた。素直に受け入れてしまった。月島はいつからか俺が好きで、俺と付き合いたかったんだと思った。
「お前なら平気」
本当に平気だったので、こちらも気持ちを伝えた。俺もちょうど好きになれる人が欲しかった。奇跡のようなタイミングだ。誰でも良かったわけではないけれど、月島なら、良い。
「期待して良いってこと」
「俺もお前と付き合いたい」
「え」
返し方が少し変だったか、微妙な顔をされた。
「僕、付き合えるの、影山と」
「付き合えるだろ」
嬉しくてたまらなかったようで、ゆっくりと、かなり強い力で抱きしめられた。思えば、月島は今日、相当、頑張ったんじゃないか。俺の耳の横で震えたため息をついているのがわかった。これは踊り場が寒いからではないと思う。
俺だって、自分の性的嗜好を誰にも言えず、ひとりで悩んでいた時期が長かった。初めて好きになったのが俺だと言っていたが、月島はいつから抱えていたんだろう。全然気が付かなかった。気持ちを伝えるにはどうすれば良いかわからず、ただ俺の頭を撫でた月島は、とんでもなく可愛らしい人間だと思った。純真無垢という言葉がこの男に似合うかどうかはわからないが、そのような存在に見えた。気持ちを受け入れたという証明と、昨日の罪悪感の払拭のために、俺からも抱きしめてやる。
昨日「影山くんが本当に大好きになれる人がいつか見つかると良いね」と軽くあしらわれたのを思い出した。俺は、これからこいつを大好きになる。たぶん、なれると思う。抱きしめたときに、何故かつられて泣きそうになったから。
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